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明治大正期の「浮世絵」をめぐって

1. 藤懸静也と大正の浮世絵派

大正7年11月の『錦絵』に、美術史家の藤懸静也が「板画と肉筆画」という文章を寄稿している[1]。冒頭を抜粋する。

文展は相も變らず秋の上野を飾り、美人畫はいつも文展を賑わす材料となつて居る。吾人は今、この美人畫と、徳川期の浮世繪との比較を試みやうとするのである。

これは文展における鏑木清方、池田輝方、上村松園らの美人画の台頭に対する反応である。池田蕉園の名がないのは前年に没しているためである。この時期の文展の美人画について、笹川臨風が「文展で俗衆がわいわい云つて大騒ぎをするのは、美人畫である。此美人畫と云ふ奴は大概浮世絵である」と書いており、当時美人画が浮世絵から来たものだという了解があった[2]。

冒頭の藤懸の文章は、以下のような断言によって特徴づけられる。

清方、輝方、松園らに対する藤懸の論難は、ほぼ難癖と言っていい。彼らの現在の芸術上の課題がなにかは無視して、いきなり天明寛政期の画家たちと比較するという非歴史的な手続である。
藤懸は「浮世絵派」を「常に現代風俗画を指すもの」であり、「前時代の風俗を描くものは、この仲間に入って居ない」とする。現代風俗を描いたものを「浮世絵派」とするのだから、過去を描いた清方や松園は浮世絵ではない。ところが、輝方は現代を描いているが、なんと「この絵を昔の浮世絵派の一つにして論じたくない」と無茶苦茶なことを述べる。つまるところ、藤懸は、現代の浮世絵派を「浮世絵派」と認めたくないというだけのことである。彼からすれば、天明寛政期の歌麿、栄之ら浮世絵黄金期の絵師たちと、現代の「浮世絵派」を称する連中を一つにくくりたくないのである。

池田輝方は「浮世絵」という言葉が嫌いだったと三田村鳶魚が伝えている[3]。その詳細はわからないが、藤懸のせいではないかと思う。藤懸の論考が掲載された『錦絵』には、清方輝方松園の三人が文展の自作へのコメントを寄せており、その同一ページに藤懸の文展評が載っているのだから彼らが読んだことは疑いない。

藤懸はこの文展評に先行する大正7年1月に、『錦絵』誌に「板画の趣味」というテキストを寄稿している[4]。ここでは、「現在の木版画の価値なき理由」として、より直接的に、

年方月耕などの錦絵や文芸倶楽部などの口絵では、昔の板画趣味は窺はれない。これらの新しい板画は筆法彩法の微に至るまで、原画と違はないやうに努めた結果、板画の長所、特色は遂に殺れ、板画としての価値の極めて少ないものになつて了つた。

と断言する。「原画と違はないやうに努めた」という藤懸の物言いには実は二重の意味がある。一つは制作プロセスの変化に伴う「差上」[5]の登場と、もうひとつは渡辺省亭が始めた版画に肉筆的な用筆をもちこむ技法の問題であり、いずれも明治20年代以降の浮世絵にとって重要な意義をもつ。「差上」と「肉筆的版画」の問題はより詳細な分析を必要としており、特に後者はこれまで論じられてこなかったが、ここでは別稿を期して議論を省略する[6]。明治版画にたいする藤懸の見解は、後に見るとおり彼に先行するいくつかの議論と類型的なものであり、この見解の累積が明治版画の性格を隠蔽してきた。
輝方は大正期にはいっていくらか版画を作っている。藤懸のこの難癖は師を貶めるものでもあり、またその師の技法および課題の引き受けが輝方の制作のベースにあった以上は許しがたいものだっただろう。

大正8年に出版された『書画鑑定法』という本に、鏑木清方の「浮世絵派と鑑定」というテキストが掲載されている[7]。
以下の抜粋に、藤懸静也らの立場への警戒を読みとるのは容易である。清方と輝方は水野年方画塾において兄弟弟子の関係にあったことは一言しておいてもよいだろう。

私共から見ると、浮世絵は肉筆よりも木版の方が尊重され、又価値から言つても、木版の方が肉筆よりも高いと云ふ今日の傾向は、全く不思議に堪へないのである。
木版が肉筆以上に尊重されるやうになつた第一の原因は、西洋人の趣好に適して、盛に欧米に向つて輸出されたと云ふ事から来たものであらう。決して木版は肉筆に比較して美術的価値が優つて居ると云ふやうな理由から来て居るものではなからう。
木版は単に木版として価値あるもので、肉筆と比較して其価値を云々するやうなものではないのである。詰り木版は肉筆の複製である、複製物として一階級下つたものと見るべきもので、即ち肉筆を美術品とすれば、木版は工芸品である。美術品に對する工芸品は、美術的価値から言つたら一階級低いものである。即ち現今の流行は其本末を転倒したものであると思ふのである。

「木版は単に木版として価値あるもので、肉筆と比較して其価値を云々するやうなものではない」という言い方には、前年の藤懸の文展評への強い非難を読むことができるだろう。また、「板画趣味」の登場が西洋的な趣味の輸入であるとする論理も特徴で、これについては後に確認する。

鏑木清方と藤懸静也の対立はあきらかである一方、両者のロジックは「複製としての版画」という同じ土俵にのっている。どちらも、「肉筆画を原図とする複製画」の存在を仮定していて、そのような複製としての版画の価値を低く見ている。清方はこのとき、論敵の圧に押され、自己弁護を試みるあまり課題を正しく定義できていない。清方は、版画一般が複製物であり工芸品であり、美術としての肉筆より劣るとしてしまっているのである。彼は、師年方について、浮世絵から離れようとして肉筆画に向かい、晩年にはすっかり日本画家になってしまった、とさまざまなところで述べているが、その年方評には、文展でのデビュー当初「挿絵かき」と馬鹿にされた清方自身の身上を投影しすぎている。

清方は、藤懸と対立しながら同じ土俵にのることで、師および明治20〜30年代の浮世絵派系統の絵師たちへの不適切な評価を払拭できなかった。

2. 創作版画と「浮世絵」という概念

藤懸の明治浮世絵に対する評価は、同様の先行例を見出すことができる。
橋口五葉は大正4年に、省亭、月耕、年方、永洗等について「木版画の特技を示す事よりは、複製的の者を作ると云ふ方面に向て居る」と述べている[8]。

また、より早い時期のものとして、明治40年5月の『早稲田文学』誌上に伊上凡骨による談話が掲載されている。(「木版画の真価」)[9]。談話の出だしは次の通りである。

近来木版画なるものの趣味が、漸く識者の間に認められるやうになつたのは、誠に喜ばしい事ですが、まだ一般の世間では版画とさへ云へば原画通りに複製する細工物であるやうに思はれて居るのはいかにも慨かはしい次第です。

凡骨は、明治版画については次のように述べている。

明治になつてからも月耕年方等の諸氏が、少なくとも昔の錦絵画家のやうな苦心があつたならば、せめても版画趣味を今日の有様まで堕落させはしなかつたらうと思ひます。然るに事実は全く反対で、画家の方で既に版などの爲めに書くのはつまらぬと云ふ風になり、昔は錦絵で楽しんで居た世間は今は石版の美人画で楽しむと云ふやうな情ない有様に堕落してしまひました。

凡骨が、こういった思考を述べるに至った経緯は、明治40年にバーサ・ラムが来日して凡骨の教えを請うたことにある。凡骨は木板の技法を伝授したが、むしろ浮世絵を「美術」として了解するラムの信念に凡骨のほうが強い感化を受けている。一介の木板職人であった伊上凡骨はヨーロッパ的思考によって木板の伝統を見直すことになった。凡骨がこの談話で述べるのは、後の大正新版画における浮世絵復興ブームの先駆的観念であると同時に、創作版画の中心的な理念でもある。

明治42年、石井柏亭が百科全書に「版画」の項目を書いたとき、「複製的版画」と「創作的版画」の項目を区別しつつ、「複製的版畵と創作的版畵との間に截然たる區別を設けるのは寧ろ困難である」と慎重な態度を見せている。ただし、この次の一文は「吾人の述べんとする處は單に美術的の版畵に止まるから複製としての外に何等の版畵的価値なきものは棄てることとする」と続く[10]。つまりここで石井が述べる「版画」という概念は、「複製技術」としての特徴が切り捨てられた「美術としての版画」である。この「美術としての版画」という見方の確立が、明治37年山本鼎の『漁夫』を先行事例とし、おおよそ明治40年の『方寸』によって確立される。同年に山本鼎は『みづゑ』誌上に「版のなぐさみ」を連載する。

創作版画グループによる「版画」観念の発達は、美術としての版画から複製機能を切り捨てることに焦点がおかれている。この概念的試みは、版画における「複製」と「美術」を遠心分離機にかけて分離することにあった。こういった観念が、大正期にはいり、浮世絵に関心をもつ一連の人々、すなわち藤懸静也、橋口五葉、渡辺庄三郎ら新版画運動の担い手たちに受け入れられ、「美術版画」としての「浮世絵」という観念が成立する。先に清方の「美術としての版画」が西洋趣味の輸入であるとの批判を確認したが、清方がどれだけ自覚的だったかは不明ではあるものの、こういった洋画家や洋画的思考を媒介にして「浮世絵」は変質していったのである。

このとき、新版画グループが「浮世絵」から切り捨てたのは、出版という概念であり、江戸期浮世絵の出版事情が抱えていた猥雑さも切り捨てる。創作版画の流れから「浮世絵」を再解釈するグループは、一様に水野年方や尾形月耕、富岡永洗らの絵を「複製」として評価を低くするが、「複製的版画」と「創作的版画」の分離を「出版」と「美術」の分離として理解すれば整合する。雑誌にのる口絵は「複製」であり、美術的な価値はないものとされた。藤懸静也が、「板画趣味」として歌麿や栄之ら天明寛政期画家を称揚するのは、美術としての側面を強調するものであるが、天明寛政期の出版の発達や吉原遊廓などから、浮世絵版画の「美術」という側面を切り離すことが可能になったのは、創作版画グループのつくりだした「複製的版画」と「創作的版画」の図式によってである。藤懸のような帝大出身の文化官僚が「板画趣味」を語り浮世絵を「美術」として処理することは、吉原遊廓のように政府が隠したいものを上手く隠してくれる論理でもあったとおもわれるが、これはより詳細な検討が必要であろう。

3. 水野年方と画塾

月岡芳年の薫陶を受けた水野年方は、名実ともに浮世絵師であったが、彼の残した絵や画業の展開、弟子たちの書き残した年方の考えなどを読むと、「浮世絵」という伝統にたいする複雑な思いが伺える。

年方が活動したのは、明治16年ころから明治40年であるが、初期には芳年とともに新聞挿絵・新聞錦絵と新興メディアを賑やかし、それから文芸誌の口絵で名を馳せる(明治20〜明治30年代)。明治30年代にはいってからは、口絵も挿絵も描くが、本画の制作を中心にするようになる。画風が変わるのは、本画を描きはじめて交友関係も変わったためである。明治10年代から20年代前半はまだ浮世絵の版行はしばらく行われていたが、明治27、28年日清戦争を境に完全な衰退期に入る。

出版業界の構造的変化のなかで、浮世絵、新聞、文芸誌と活躍の中心を変えながら、年方は出版界でのトップランナーでありつづけたが、業界の構造的変化と並行して、趣味の領域における大きな変化があった。かつて浮世絵が中心的なモチーフとした花魁も役者も、明治政府の検閲により表現の現場から撤退することになる。年方の画風の変遷はこの事情をよく物語る。吉原遊廓や芝居町といった浮世絵を育てた江戸文化から離れ、文芸誌を読む層、おそらくは新興ブルジョワジーの婦女子を中心とした読者に届く絵を作りだす。榊原百合子(蕉園)はその読者であり、高山樗牛の『瀧口入道』のために年方が描いた口絵は、彼女を年方画塾に向かわせる契機であったとおもわれる。この変化にあって、年方の絵に影響を与えたのは当時確立の途上にあった「日本画」である。年方は、江戸から続いた町人文化としての「浮世絵」の終焉と向き合い、浮世絵の起源としての土佐派まで遡ろうとする。

明治40年に雑誌『衣裳』に掲載された年方の談話に「浮世畵と繪師」と題された箇所があり[11]、彼が「浮世絵」をどのように把握していたかという点で興味深いものだが、ここで年方は「風俗畫は土佐畫が元祖」であると明言している。

風俗畫は土佐畵が元祖です、一遍上人の書かれた五六百年以前の風俗抔(など)は實に明かに缺點なく書いてある、其他四五の浮世畫の有名な人もありましたが、次第に書く物がなくなつた、日本にも畫家は數多あるし又古代の人は貴賤の別なく繪を書いたものでしたが如何にも風俗其儘を書いたものはない博物館にある権現記高階隆景の畫は却々(なかなか)巧妙なものです

この談話は次のように続く。

文政の頃から畫界は堕落し始めた文政以降の畫家の態度はと云へば、畫家の眞意が職人の如く自ら信じて自ら地位を卑しめ私が習ひ始めた當時は印半天を着て會へ得意となつて来た者もあつたが、近年は外國畫の輸入すると共に覚醒をして来り良傾向を呈し居るは喜ばしい事です。

年方の大師匠にあたる国芳など典型的に「印半天」を着ていそうなタイプであるが、年方は国芳を尊敬してもいる。国芳は、気風は職人でありながら、その画技ときたら圧倒的に近代的な芸術家である。師芳年も国芳の気風をよく受け継いでいる。年方が試みようとしたのは、浮世絵の江戸的な気風を脱し、土佐派まで先祖返りしたなかで「浮世絵」を再解釈することだった。彼は本画を試みるなかで、江戸木版画としての浮世絵が身分制によって「職人」的に固定化していったと考える。彼が「浮世絵」を土佐派と結びつけようとするのは、この身分制を一度リセットする試みである。

年方のこういった試みは、創作版画の影響による浮世絵のヨーロッパ的解釈とはまったく独立であり、彼の生前には交じわることがなかった(年方は明治41年歿)。年方画塾の面々(清方、輝方、蕉園ら)は、「浮世絵」にまつわる江戸的性格と向き合うことを余儀なくされていた。なかでも、職人の子であった池田輝方は、自身も江戸の職人の子であった年方がもっとも愛した弟子ではないかとおもう。輝方は、錦絵としては『江戸の錦』、本画としても『江戸時代の猿若町』(明治36年、猿若町は芝居町の一つ)など、つねに江戸に懐旧的な絵を描き、大正画壇において清方や蕉園らとともに一時代を築いた。それが冒頭に書いたような藤懸静也による批判を受ける。ここに現れる対立は、ヨーロッパ的に解釈された「浮世絵」と、滅びゆく江戸文化の継承者たちの対立である。年方にとっても、輝方や清方や蕉園らにとっても、「浮世絵」とはたんに美術史的に対象化できるようなものではなく、愛憎半ばする生きた環境そのものであった。

藤懸の「板画趣味」としての「浮世絵」はずいぶん非歴史的な物言いであり、年方画塾のメンバーを苛立たせるにじゅうぶんだっただろう。彼らからすれば、藤懸らの「板画趣味」はヨーロッパ人が愛する浮世絵でしかない。

水野年方や尾形月耕ら、明治20年代から30年代を中心に活躍した浮世絵師たちが歴史の彼方に忘却されることになったのは、「浮世絵」という概念そのものが、山本鼎や伊上凡骨、石井柏亭らの確立した「版画」という概念に照らされて、変質して「美術」となってしまったが故である。「美術としての浮世絵版画」という理念に照らして、彼らの仕事は「浮世絵」ではなくなってしまった。この「歴史」はあきらかに倒錯的である。この倒錯を前にして、年方の弟子たちは、江戸的なものとしての「浮世絵」の再構築を試みたが、これは滅びるよりほかないノスタルジーであった。このノスタルジーを他所に、創作版画による影響下に「浮世絵」という観念はまるごと洋画的に再構築された。年方の弟子である清方でさえ、大正8年当時にはこの見方からまったく自由ではなかったことは「木版は肉筆の複製である、複製物として一階級下つたものと見るべきもの」という言明にあきらかである。創作版画による「美術としての版画」概念の成立は、その陰画として「美術ではない版画」すなわち「複製としての版画」という概念を生み、明治期の浮世絵はそこに割り当てられたのである。


  1. 藤懸静也「板画と肉筆画」(『錦絵 20』大正7年11月) https://dl.ndl.go.jp/pid/2787434/1/10
  2. 笹川臨風『自然美と芸術美』146頁、大正6年 https://dl.ndl.go.jp/pid/959070/1/78
  3. 三田村鳶魚「浮世絵妄言」(『東洋』昭和11年) https://dl.ndl.go.jp/pid/1516233/1/56
  4. 藤懸静也「板画の趣味」(『錦絵 10』大正7年10月) https://dl.ndl.go.jp/pid/2787424/1/9
  5. それまでは版下絵(線画)をもとに彫師が彫り、そこから校合摺が絵師に戻り、色分けの指示を書く、という工程だったのが、明示中期頃からこの色分け指示に変わって「差上」と呼ばれる完成図に近いイメージの絵が登場した。右田年英によると、差上が必要となったのは、それまで絵師と摺師の間に色についての暗黙の了解があったのが、浮世絵出版の衰退とともに仕事量が減ってしまい、たまの仕事では絵師と摺師のあいだで色の相互了解が成立しなくなった。そのため、完成時の色のイメージ指定として「差上」という完成図に近い色見本が必要になってきた(右田年英「錦絵の今昔」)。この談話は、右田年英や水野年方など、古くから浮世絵を描いてきた絵師たちは「原画の再現」としての版画など存在していなかったことを示唆する。もっとも、後の世代の川瀬巴水となると、あきらかに「差上」は「原画」として機能している。
  6. ここで「肉筆的版画」と呼ぶものは、渡辺省亭が版画に持ち込んだスタイルとして定義するのがよいだろう。明治20年代の年方、月耕らの版画を見ると、版画による筆触の再現が見られるが、これを創始したのは渡辺省亭であるようにおもわれる。明治20年代を通じて主流となったこの特徴はいまだ論じられていない領域であり、その芸術的な意図は、藤懸が言うような「原画と違はないやうに務めた」ものではない。これは別に論じられる必要がある。
  7. 鏑木清方「浮世絵派と鑑定」(『書画鑑定法』大正8年) https://dl.ndl.go.jp/pid/1870979/1/352
  8. 橋口五葉「日本の木版画」(大正4年) https://dl.ndl.go.jp/pid/1499228/1/15
  9. 伊上凡骨「木版画の真価」(『早稲田文学』明治40年) https://dl.ndl.go.jp/pid/11007072/1/72
  10. 石井柏亭「版画」(『文藝百科全書』明治42年) https://dl.ndl.go.jp/pid/1875725/1/689
  11. 『衣裳』第一巻第8号 13頁、明治40年 https://dl.ndl.go.jp/pid/1468025/1/17