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君たちはどう生きるか

見終わって、まず疑問だったのは、「なぜ太平洋戦争の時期である必要があったのか?」ということだった。

基本的には、少年が異界に行って帰ってくるという話であるが、異界への旅立ちまでにはそれなりに太平洋戦争期の日本の描写があり、当初わたしは前作『風立ちぬ』のような戦争映画なのだとおもった。しかし、鷺が喋りだしてからファンタジー世界が展開しはじめ、主人公はファンタジー世界内を冒険し、最終的にはその世界が崩壊して現実に帰還する。ファンタジー世界の描写の前後を、戦争の開始と終了が挟んでいる形だ。冒頭の丁寧な戦時中の描写と比較すると、最後はかなりあっけなく終了する。映画の冒頭で提示された太平洋戦争という主題が、ファンタジー世界の展開によって完全に宙吊りにされたまま、その世界が崩壊してすぐに映画自体が幕を降ろす。主人公のわだかまりや家族の問題は大団円を迎えたように見えた一方、太平洋戦争という主題はまったく未消化なまま映画が終わったかのように感じた。プロットだけでいえば、『千と千尋の神隠し』の焼き直しのように見えたがゆえに、「なぜ太平洋戦争の時期である必要があったのか?」という冒頭の疑問になった。

もうひとつ素朴な印象として、2021年に公開された庵野秀明の『シン・エヴァンゲリオン』を想起させる内容だった。「塔」のなかのファンタジー世界は、「大叔父」が積み木で形成したものであり、主人公眞人はそのファンタジー世界を継承するよう頼まれる。エヴァ世界における「人類補完計画」とは「想像力による世界の再創造」という設定であり、主人公のシンジはこの世界の再創造を仮託された存在だ。『君たちはどう生きるか』で、「大叔父」は想像力によって世界を形成しており、その世界は滅びに瀕している。眞人はそれを再創造する役割が与えられているが、結局それは実らず、その世界は崩壊する。その世界の崩壊によって眞人は現実に帰還する。

エヴァンゲリオンとの類似性は、宮崎駿と庵野秀明の師弟関係をおもえば、宮崎が意識したであろうことは考えられる。エヴァとの差異を明確にするならば、エヴァにおいての結末は人類補完計画が完了した結果としてあり、つまり「想像力による世界の再創造」が完了した結果として主人公は現実に帰還するのだが、『君たちはどう生きるか』では先に書いたように「想像力による世界の創造」を放棄した結果現実に帰還する。エヴァ世界における「現実」とは常に想像力によって作り変えられた結果にほかならないが、宮崎世界では想像力と現実との境界は明確に存在しており、想像力が放棄されることによって現実に帰還することになる。

「なぜ太平洋戦争の時期である必要があったのか?」という冒頭の疑問については、ファンタジーの内容について検討してみると意味がわかる。眞人と夏子が迷いこんだ「塔」は「御一新」のころに謎の隕石かなにかが落ちてきたもので、突如としてできあがったものだ。この塔の外部に「大叔父」は建築物を建て、そこから帰ってくることはなかった。「大叔父」が天皇のメタファーであることはあきらかだ。明治に突如として創作された天皇制は、近代日本の礎石として創作されたものであり、太平洋戦争に至るまで日本の君主は天皇だった。眞人が迷いこんだ世界にでてくるインコは、食欲と暴力性しか感じられない粗雑な性格だが、階級社会を形成しており、王までいる。王はこの世界の最高権力者ではなく、創造主としての「大叔父」より下位の存在である。インコは日本軍の戯画であろう。

眞人の父勝一は、戦闘機の部品を作る工場を経営しており、戦争の悲惨など無関係に景気のよさを誇っている。これは宮崎駿自身の父親をモチーフとしている。勝一は、眞人をダットサンで学校に連れていくことでその経済力を誇示したり、眞人が暴力を振るわれたと仮定し「犯人」をつかまえると意気込む。勝一は、社会にたいして権力を行使すると同時に、眞人にも権力を見せつけるブルジョワジーである。眞人は、異形のアオサギに対しても物怖じせず、「塔」のなかでも夏子の探索に勇敢さを発揮するが、父の力にたいしてはきわめて従順である。

眞人にとって継母となる夏子は、死んだ実母であるヒサコ(ヒミ)の妹にあたり、叔母でもある。疎開してそうそう、眞人は、勝一と夏子が帰宅早々キスをしている現場をたまたま見てしまう。眞人は気付かれないよう自室に戻るが、勝一と夏子の性的な関係が示唆されている。眞人が夏子を「母」として受け入れられないのは、夏子が母とそっくりだからなのではなく、勝一が母の死後に間もなく夏子と性行為をしていることがあきらかだからだ。勝一にとって、母や妻というものは姉と妹を取りかえても構わない交換可能な役割である。眞人の夏子に対する戸惑いは、眞人にとって唯一の母が、勝一にとっては取替可能な「妻」だからである。

勝一の描き方や「大叔父=天皇」を踏まえると、『君たちはどう生きるか』が描こうとするのは、家父長制だろう。「塔」のなかの異世界において、ワラワラは上昇して人間として生まれなおすのだが、上昇の際に描く螺旋は遺伝子をおもわせるものがあり、生命の誕生のメタファーになっている。ワラワラの世話をするキリコはいわば産婆である。また、この世界のかなり奥深く夏子がいる場所は「産屋」であり、ここに立ち入ることはタブーとされている。「塔」において、女性は再生産労働に従事する。これが「大叔父」が作りだした秩序である。

夏子を現実に連れ戻そうと、産屋まで行った眞人は、夏子を「おかあさん」と呼ぶが、「あなたなんて嫌いだった」と憎しみをぶつけられ、拒絶される。夏子が憎むのは、眞人その人ではあるまい。姉が亡くなって間も無く自分と性交渉をしてきた勝一であり、彼が代表している家父長制そのものだ。眞人は家父長制における長子であり、夏子は「母」という役割を与えられる。夏子がこの役割を受け入れていないことは、彼女が神隠しにあったのが自主的な意志によるものからもわかる。夏子はその制度に囚われ、出ることができない。夏子が眞人に呪詛を唱えるのは、自身に与えられた「母」という役割への拒絶にほかならない。眞人と夏子が「家族」になるのは、家父長としての勝一の権力を是認することによってである。

「家族」は、1995年にテレビ放映されたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」で鋭く主題化されており、そこでは家族であることを求めながら無惨に崩壊していく様が描かれた。この時期はわたし自身も家族崩壊の際にあったが、「家族」のイメージが欺瞞として崩壊していくエヴァンゲリオンというアニメには、「響く」という以上のものがあった。それはわたしたちの時代の象徴だった。『千と千尋の神隠し』も家族から始まり家族のもとへ帰還するが、ここでは千尋は孤独を味わうが家族は崩壊せず、その危機は夢として処理される。エヴァ公開から四半世紀以上も経って完結したシン・エヴァンゲリオンでは、あれだけ執拗に描かれた家族の崩壊から一転して、父ゲンドウもまたシンジを愛していたように描写され、最終的には父・母・子の愛の物語が神話的に語られることになった。これは四半世紀経過して「家族の崩壊」という主題にリアリティが感じられなくなったからかもしれない。シン・エヴァ公開当時には、庵野も成長してこうした大団円が描けるようになったように、わたしたちも同じように時を経て成長した、といった感想が流れた。忘却を成長と呼びなおすことに意味はあるだろうか。

だが、宮崎駿は今作においてより微妙な不協和音を創出することで、「家族」という物語が明治近代国家の誕生によって作りだされた権力装置だということを暴きだす。戦争が終結することで、明治以来の天皇制というファンタジーは瓦解する。もちろん天皇制は現実になくなっているわけではないし、勝一は戦時景気で稼いだことなど一切無反省に生き、夏子も眞人も沈黙していることだろう。わたしたちの目の前から「家族」という問題が消え去っていないこともあきらかだ。大団円などしていない。ここにおいて「君たちはどう生きるか」という問いが、わたしたちの手に渡されることになる。