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新聞縦覧所について

永嶺重敏の『〈読書国民〉の誕生』によると、明治初期ころから新聞縦覧所というものがいくつもあった。

新聞縦覧所は、つぎのような使われかたをしていた。

「又鹿児島が騒がしいさうだと(記者の口真似ではないが)道路の風説がチラリと耳に這入たから新聞縦覧所へ朝がけに侵入して第一の床几を陣営とお尻を据て片端から読でみると去四日から五日六日と漸次に鹿児島の景況のわかりましたは諸新聞のお陰で(略)」(『東京絵入新聞』)

これについて著者の永嶺は次のように述べている。

西南戦争という国家的大事件に際して、近世的な風説や噂話ではなく複数の新聞報道に基づいて事件を客観的にとらえようとする読者の姿が見えてくる。新聞縦覧所はニュースをより深く多面的に、そして時系列的に把握することが可能な空間であった。そして、この時期にそのような空間は他には存在しなかったのである。(p.193)

新聞のデザインにとって重要なのは、平面に複数の見出しを作り情報を一望できるような紙面を形成したということだけではなく、情報が累積されることを前提にして、情報を時系列的に配列していくことにあるとおもわれる。西南戦争の新聞記事を読む読者にとって、新聞縦覧所はアーカイブ施設として機能している。

現代ではブログやマイクロブログ(SNS)がたいへん似た構造を持っているが、「情報を時系列に配列して事象を理解する」というような態度は、歴史意識の形式的な構造のように見える。これは新聞登場以前に認められるものだろうか。すくなくとも、近代的な歴史意識にとっては、図書館のような情報の集積施設はどうしても必要だろう。

永嶺によると、新聞縦覧所は民間主導で設立ブームがおきる。新聞縦覧所の設立そのものがニュースとして新聞紙面で報道され、その繰り返しで全国に普及した。紙面には、新聞縦覧所設立の目的が次のように掲載された。

「有名の新聞紙を購求して文字を知る者は之を読みしらざる者はしる者より懇篤に教なば一村を挙げて文明とやらの域に達せしむるも容易かるべしとて我が東京日々新聞報知朝野読売其他数種の新聞を購求せん事を計りしに同意を表する者忽ち二十余名に及び則ち同村五十一番地へ新聞縦覧所を設け無見料にて之を読しむると云ふ」(『東京日々新聞』明治17年7月3日)

新聞紙が、新聞縦覧所の設立について報道するのは、新聞の販路を地方に広げるためだろう。新聞紙と新聞縦覧所にとって「文明」は売り文句だった。新聞はそもそも「文明」の象徴として現れたと言ったほうがいいかもしれない。「メディアはメッセージ」だったわけだ。

日々新しい情報が出てくるということ、それが一日という単位でアーカイブされるということ、こういった時間意識が新聞の登場によって生じているのだとしたら、現代のわれわれが、SNSによって形成している時間意識はどんなものなのだろうか。あるいはこれはミスリーディングな問いなのかもしれない。