「大吉原展」について思うこと
プレスリリースのなかで、歌麿の『吉原の花』についての記述がある。ここから「女性たちだけで宴会をしたらどれほど美しい光景だろうかという空想の世界」という記述を取り出して批判しているものを見かけたけど、プレスはそのあと「まさに吉原の絵空事を描いたもので」と続けている。
プレスの書き手がはっきりそうと断言しているわけではないが、この言い方はおそらく浮世絵文化の虚飾性を指摘しているものだとおもう。この辺でおおむね企画の方向が推測できる。浮世絵はいままで華やかな文化として受け取られてきたが、背後にある力関係からどういったフィクションが要求されてきたのか、その華やかさとはなんなのか。ディズニーランド的虚構性は吉原に発する江戸文化の本質の一つで、そこに「当事者」がいないというのは、江戸文化そのものが浮世絵などを通じて当事者の排除をおこなっていたという話でもある。ここから、展示企画者が現に「当事者」の排除をしているかどうかはより詳しい議論が必要であろうが、現時点で判断することは控えておく。
本展企画の中心にいるとおもわれる古田亮氏は「本展は、近代日本美術の原点に位置づけられる高橋由一の《花魁》(1872 年)から着想されました。」と述べている。企画が高橋由一の花魁からはじまっているのは、その絵がもつリアリズムが江戸の虚飾性を照射するものだったからだろう。これもプレスからの引用になるが、由一の弟子の伝えるところでは「完成作を見た小稲は私はこんな顔じゃありませんと泣いて怒った」。小稲の反応に、彼女が吉原的虚飾性=浮世絵表現にリアリティを感じていたことを読みとることは不可能ではない。小稲という「当事者」は浮世絵に飾りたてられたいという欲望をもっていて、その欲望を由一の絵は砕いてしまったのかもしれない。
この話は、大正期に浮世絵復興を試みる鏑木清方が、画系としては浮世絵につらなる自身の画業を「社会画」と呼ぼうとしていたことと、若干関わっている。清方は、デビューからしばらくは「挿絵書き」と言われ日本画から格下扱いされていた。浮世絵系統の画家の社会的地位は高いものではなく、浮世絵も美術と見られていたわけではない。清方は浮世絵という当世風俗の描写に重きを置いた表現にプロレタリヤ的なものを見出そうとし、それが「社会画」という呼び名にあらわれているが、ほとんど失敗した。清方にはあきらかに限界があり、その限界は浮世絵=江戸への懐旧によって規程されている。彼は被抑圧者階級としての遊女というテーマを手にしながら、江戸へのノスタルジーの眼鏡を外すことはなかった。それはまさに虚構への愛だったわけであり、生きた社会など描きようもないのである。
日本における浮世絵の研究は明治末から大正ころにはじまっている。ちょうど浮世絵がほぼ死んでしまった時期にあたる。この時期に浮世絵は美術史的対象として確立され、美術として鑑賞する仕方の確立とともに、生れ育った江戸文化から切り離される。このような物の見方の確立は、ヨーロッパ的な観念が複数の線から受容された結果でもある。美術史はこういった脱文脈化に寄与してきた学問ではないかということには以前から関心がある。
本展と批判者のすれ違いは、展覧会のタイトルから来ているとおもう。吉原は非道なる人身売買制度であり、この制度の痕跡はいまでも日本社会に存在している。痕跡どころでないものもたくさんあるだろう。展示企画者が、由一の絵や近代浮世絵の調査から、江戸文化の基底にある吉原の調査に向った学術的誠意は疑わない。近代の日本美術で解明が遅れている領域のひとつに大正期の「美人画」があり、それは美人画がどこから来たかが忘れられているからであるとおもう(美人画の系譜は現代のイラストレーションまで射程に入れると重要な検討事項がたくさんある)。この関心はまったく美術史的なものであり、浮世絵と吉原の関連を明らかにすることは美術史にとっては進歩であるが、「苦界」としての吉原をあきらかにする助けにはたぶんならない。本展覧会は本質的に浮世絵展であって吉原展ではないのだとおもう。浮世絵を通して見る吉原は美術史的には意味があるが、先程の清方の例に似ていなくもない。美術史学の眼鏡を通して観察する吉原は、清方がそうだったように生きた社会を捨象するかもしれないものである。
これはわたしの関心から本展への期待を適当に書いているものである。したがって、展示の企図がどうであるかはなんら保証しない。ただ、自分の関心ある領域が本展と関わるような気がしているため、いま思うところを書いておくことにした。実際の展示を見るまではなにも言わないでいいのかもしれないが、おそらく展示を見ても感想は書かない。