身体の自己決定をめぐるアポリア --百瀬文「Flos Pavonis」について
百瀬文「Flos Pavonis」は2021年の横浜市民ギャラリー「新・今日の作家展2021 日常の輪郭」で初めて展示され、その後も何度か展示・上映された。
横浜市民ギャラリーのインタビューで、この作品の動機について百瀬は、コロナ禍での国家による身体管理と、ポーランドでの人工妊娠中絶の禁止法案の施行を結びつけ、「国家によって管理される子宮というものがあるとしたら、一体それは何なのか」と問う形でフィクションの制作をはじめたと述べている。
https://ycag.yafjp.org/wp-content/uploads/2021/07/Sb21_V1T1.pdf
見たことがない方もいるだろうから、あらためて作品のあらすじについて述べたいところであるが、なにぶん見たのも数年前のことであり詳細を覚えていない。幸い artscape での高嶋慈さんのレビューが作品のあらすじを記述しているので、ありがたく引用させていただく。
映像作品《Flos Pavonis》は、ポーランド人女性と「私」のメールの往復書簡のかたちを取り、2021年1月にコロナ下のポーランドで成立した人工妊娠中絶禁止法と抗議デモ、日本に残存する堕胎罪や「父親にあたる男性に中絶の拒否権が認められている」非対称性について語られる。タイトルの「Flos Pavonis」とは、ヨーロッパの植民地であったカリブ海地域に奴隷として連れてこられた黒人女性たちが、白人領主の性暴力による望まぬ妊娠に対する抵抗手段として用いた、中絶誘発作用を持つ植物の名である。この名を自身のブログに冠したポーランド人女性は、抗議デモへの参加ではなく、部屋にこもって「セックスフレンドとの避妊なしの性交」に明け暮れていると綴る。モノの媒介よりも体液を介する方がウイルス感染の危険性が高い世界では、それもまた「身体を管理する政治」への抵抗となる。そう応答する「私」は、「bitch」と「witch」の類似について語る。そして妊娠した彼女のために、日本では沖縄に生息する「Flos Pavonis」を取りに行って届けるからと告げる。「私の身体は私のものと自信を持って言えない世界なら、私が代わりにあなたの罪を引き受ける」「あなただけの魔女になるために」という台詞は、まさに「連帯」の強い意志を示すものだ。
追記すれば、作中のポーランド人女性は Natalia、「私」は Aya と名乗っている。
あらすじはこれでよいとして、「「連帯」の強い意思を示すもの」という評価には、わたしは違和感をもったことを覚えている。作品の与える印象が、 Aya と Natalia のシスターフッド的連帯と呼ばれるようなものではなく、もっと後味の悪いものを感じさせるのだった。
思い出しも含めて、本作について触れたいくつかの記事を読んだが、なかでも柴山麻妃さんによる2023年におこなわれたインタビューは印象的で、ぜひ読んでほしい。
インタビュー:百瀬文さん(アーティスト)
柴山さんから百瀬への質問に「(登場する) Aya は、母親が堕ろさなかった故に生を受けた。 Natalia は、避妊もしないでおきながら子どもができてしまったことに動揺する。」とある。
また、2023年京都ロームシアターで行われた上映会のトークイベントのレポートで、百瀬は次のように述べている。
「ナタリアはたぶん、不安なセックスをしてしまったあとで自分の生理の血を見て、よかったと安堵すると思います。でもそれって、産まれるはずだった誰かの死に安堵しているということでもある。これは私自身の実感でもあります。すこしトリッキーな発想かもしれませんが、自分の身体を介したねじれた回路をとおしてであれば、遠く離れた人とでも語りあうことができるんじゃないかって思ったんです」(百瀬)
“いま”を考えるトークシリーズ Vol.20 〈百瀬文映像作品上映+トーク〉 「痛み」を共有する——身体、芸術、エコロジー」レポート
「私の身体は私のものと自信を持って言えない世界」という作中のフレーズは、現実のポーランドの事情、作中においては Natalia を取り巻く世界であるが、 Aya は自分の母と Natalia を重ねている。おそらく Aya の母は「私の身体は私のものと自信を持って言」うことができない。出産と子育てを通して、母は身体の自己決定とは遠く、子の存在そのものが親の身体の自由を奪う。 Aya がこれから犯そうとする罪は、ポーランドにおける違法行為(人工妊娠中絶)を犯すというだけではなく、Natalia=母に堕胎させることによって Aya 自身の存在を消去しようとするものでもある。 Aya と Natalia の関係は自らの尾を食みつづけるウロボロスのようなものだ。 bitch から witch になる Aya は、bitch が母になれないがゆえに魔女になったとも言える。この魔女は、「身体の自己決定」という思想が自身の実存の根幹を危うくするということを知っている。堕胎とは生命に対する選択的態度であって、望まれなかった生存を抹消することでもある。ここにあるのは身体の自己決定をエンパワーする「連帯」というよりも、「女性の身体の自己決定」が作りだすアポリアである。
このウロボロス的イメージは、この展示でも出ていた「Born to Die」では造形的に表れている。先程の横浜市民ギャラリーの資料から本人の説明を引用しておく。
この映像は全て3DCGで出来ていて、中央にはチューブ状の形体をしたオブジェクトが映っています。チューブの両方の穴にLEDライトのようなものが付いていて、それが光る瞬間に吐息が聞こえるようになっています。この吐息には、実は2種類の吐息が含まれています。片方はインターネット上に落ちている個人の出産ビデオから抽出した女性の吐息、もう片方はやはりインターネットに氾濫しているポルノから抽出した女性の吐息です。このチューブの中で2つの吐息が行き来しているのですが、映像ではその吐息が一体何から抽出されたものなのかはわからず、吐息がチューブを通るたびに光が明滅します。このオブジェクトは、自分の体の中にある、一方では入口になり、一方では出口になるという、ある社会的な機能を負わされているチューブ状の器官である膣を表しています。例えば「産む機械」と呼ばれるようなことに対するアイロニーとして、それを本当にリテラルにつくったらどうなるのだろうということを、女性の吐息という記号的な音声を使ってつくった作品です。
https://ycag.yafjp.org/wp-content/uploads/2021/07/Sb21_V1T1.pdf
女性器は、性交の道具であり、出産の道具である。この二重性が成立するのは、近代の男性中心主義社会において、女性身体が性交の道具であるか出産の機械であるかの二通りのやりかたで扱われてきたためである。女性身体を(男性から見たときの)機能として分化したものが、性奴隷と母である。従軍慰安婦とは、機能上必要とされた身体であり、ここからは出産という機能は排除される。「Born to Die」では一つの穴が二つの機能を持つのではなく、リテラルに二つの穴があり、機能的な分極化に対応している。この「二つの穴」はまさに近代の家父長制社会が作りあげた記号である。性の対象としての女性と母という存在はこの枠組みのなかでは非連続的であり、この中間は抹消される。性行為と出産の非連続性がチューブという謎の装置で繋がれ、性行為と出産の関係は神秘であるどころか不可解である。
Natalia が自分の妊娠に動揺してしまうのは、性行為から出産という可能性を排除して考えてしまうためである。彼女の無思慮な性行為と、 Aya による堕胎は、「身体の自己決定」という思想をもとにした、国家による身体の管理に対する抵抗なのだろうか。むしろ、 Natalia は、近代家父長制が作りあげた女性身体の非連続性を密輸入しているがゆえに、性行為から出産の可能性を排除しているのであって、彼女の想像力は根本的に近代家父長制の枠内にある。このシステムのなかで bitch とは母になることが許されていない存在なのである。それゆえに Aya は魔女になるのである。
この記事は、数年もたってあらためてこのときの後味の悪さについて記述しておきたくて書くものである。
いまさら数年前の展示のレビューを書くのも、トランプ大統領の再選を契機に、 "My body, my choice" をもじって "Your body, my choice" と悪意あるパロディが囃したてられ、中絶をめぐる女性の権利が後退しそうな状況があり、この作品について思いだしていたためである。このような記事を書くことが現下の状況において妥当であるのかどうかは私には判断できないが、作品の後味の悪さを現実のほうがすでに置き去りにしているようにも感じる。
わたしが魔女として想起したのは魔法少女まどかマギカであることも付言しておく。